14時から始める小旅行

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正しさに負ける風

あけましておめでとうございます。

一応、夫の祖母が昨年亡くなり喪中のはずなのですが、夫の実家の新年会に参加したら普通に義父が「あけましておめでとうございます」という乾杯の音頭を取ったので、いいということでしょう。

 

今年はいい加減挨拶をしてない夫側のご家族に挨拶を兼ねて、実家には帰りませんでした。年始そうそう仕事もあったので……。

いつか書いた夫の妹さんとその旦那さんもいらしていて、はじめましてとご挨拶を致しました。義実家には大変良くしていただいていて、お義母さんとは先日ご飯に連れて行ってもらったりしているのです。お義父さんにも美味しいものを頂いたりと何かとお世話になっており、世にいう難しさというのはこれまで特段感じたことはありません。

ただ、いざこのように集まってしまうと都会育ちの裕福な夫の家に、片田舎の母子家庭の育ちの悪い私は身の置き場がないような錯覚に陥るのです。妹さんの旦那さんもやはり夫や妹さんと同じような名門に数えられるような大学を出ていて、身なりも立ち振舞いというものも余裕があって、こんなことをブログに書き付けている私とは異なるのですよ。箱根駅伝を見ながら大学の話なんかが出るたびに「あはは……」と笑って誤魔化すしかない私とは。私は、あの空間においてさながら異物です。

どれほど良くしていただいて、何も感じないように気を使ってくれたとしても私はその感覚を拭うことは出来ないでしょうね。

 

お酒を出してくれたのは救いでした。こういうときのためにお酒はあるんだと、心底身を持って感じました。お酒は人よりいくらか得意ですから、こういう席では飲んでさえいればなんとかなる。素面でやり過ごすよりもずっとずっとマシです。

歓談も決して苦手ではありません。私はあの場で為すべきことを全うしたと思います。

 

お話が盛り上がった頃、お手紙のようなものを夫の妹さんが差し出しました。お義母さんが広げました。私の乏しい人生経験からではありますが、黒黒した切れ端とマーブル模様にのように浮かぶ白い影からそれが何物であるか理解しました。

ぞわり、と背筋を遡る恐ろしさを、肺を潰されるような苦しさを私は湛えて微笑みを作り「なになに」とぼけたふりをするのです。

結婚して一年弱、妹さんは子供を身籠っていた。

おめでとうございます。私は震えながらエコー写真を受け取って見たふりをする。

昔から胎児のエコー写真をみるのが苦手なんです。生命を感じるものが、時として素晴らしく映り、時として恐ろしく映る私にとってはどうにも苦手で仕方ないのです。

 

でも私は確かに予感していたのでした。

歪む、歪む。私の目の前にいる人達が。私が逆立ちしてもなれない、普通の観念で普通を幸せに生きる人達が。すごい真っ当じゃないですか。

自分の中にある一切の性欲を否定してみせようと、トルストイの性愛論にすがらんとする私とは違うじゃないですか。どれだけ私が普通の人間をエミュレートするのに長けていても、この境地には一生たどり着けない。そういう絶望の味を今日のエビスは私にまざまざと突きつけてきました。

 

本当におめでとうございます。とても尊いことだと思います。

ただ私が一切の現象に対して恐ろしさを感じ、また恐ろしさを感じる真っ当ではない自分を嫌悪しているだけなんです、本当に。

学歴コンプをこじらせて周回遅れで大学に通う自分も、大学にかまけて社会人を全うせず夫にのうのうと養われている自分も、そんな安全な環境を提供されているのにも関わらず結婚に反抗を続けている幼さも、女性性を未だに引き受けきれず目を逸らし続けている青さも、子供を持てるほど精神的にも経済的にも余裕のない危うさも、子供を持ちたいと思えない精神性も、理想的な妻はおろか飼い猫のような扱いを受けている自分も、生命を知覚できない自分も、生命を恐れる自分も、その全てを甘んじて受け入れよしとする夫も、何もかも許せずに嫌悪しているだけなのです。

 

私は何も正しくない!

そんな事実を八海山と一緒に飲み込むほかないまま、杯を重ねました。

ね、八海山って美味しいんですよ。二十歳になって初めて飲んだお酒が八海山でした。それに今日のはとっておきでしたから、尚更美味しかったです。本当に。だから飲みすぎてしまったんですね。それに十七度もあるとは思わないじゃないですか。はは、胃酸って苦いのですね。

 

帰宅して私は耐えきれなくなって泣きました。

夫はなにか嫌だったかと気を使って聞いてくれましたが、何も嫌じゃなかった。自分がただただ許せないだけなんです。こんな仔細を夫に話すわけにはいかないじゃないですか。こんな醜悪な僻み、いくら私の醜さを知り尽くしているような夫にだって言えないですよ。こんなひどい、ひどい話。

だから、帰り道にひどくお酒が回ってしまって気分の悪さから生理的な涙が出てしまったとそういう風に伝えて眠りました。そして、こんな時間に起きてこれを書いているのです。

 

大人しく実家に帰ってしまえばよかったのです。実家では私はもう結婚して人生上がったようなそういう風に見られているので特段苦しくはないんですね。頭のおかしかった女が結婚してくれただけで万々歳、そんな居心地の良さと特権意識をここ最近は啜っているわけです。そういう甘やかされた環境へ何もかも擲って逃げ込んでしまえばよかったのです。

 

結婚などやはりどこか欠落した私に務まるようなものではなかったのです。真っ当な人生らしき人生を私は演じることができない。普通の観念で生きる夫や義母、義父にそれを与えられない。地面に頭を擦り付けたくなる衝動に駆られながらこの先生きていく他ないのでしょうね。

 

知ってます?私がね、そのまっとうな人生らしき人生を手に入れて言うこと。

「結婚に引き続き、信条に敗北を重ねた私は生きている価値などもうない」

おそらく、これに準ずることを言うのだろうと思います。

どっちなんだという話ではないんです。どっちに転んでも私はそういう正しい人生を歩めないし、肯定できない。だからね、もっと普通で正しい観念をどうしようもなく手に入れたくて手に入れたくて手に入れたくて焦がれているのです。

 

私は、半年後夫の妹さんの子供にどのような表情で対峙すればいいのでしょうか。そして存在論的恐怖に打ち勝つ強さとその勇気を。どうか、どうか、もう誰も私を肯定しないでと虚しく贅沢な祈りを胸に、箱根駅伝の復路に備えて仮眠をしようと思うのです。